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木村哲矢建築計画事務所 木村哲矢 が  見たこと 聴いたこと 感じたこと

2018年度上方文化講座 『妹背山婦女庭訓』

先の建築日記に続いてようやくの夏の宿題第二弾、夏の終わりの上方文化講座受講録です。
色々なものがたて続けに壊れてしまったこの夏の終わりに、ノートパソコンの液晶画面までもが壊れて映らなくなってしまい、その修理が9月の下旬までかかってかように遅くなってしまいました。(とは単なる言い訳・・・?)

その前に
この夏、歌舞伎では高麗屋襲名披露の華やかな公演で「女殺油地獄」を観劇、文楽の派手に滑りまくる与兵衛を生身の人間がどのように滑るのか興味津々でしたが、さすがに生身とあってかなりリアルに油にまみれて滑って滑って!楽しめました。(が、勘十郎さんも観劇されたそうで、上方文化講座で一言コメント 「滑り足りない」 と物足りなそう、派手に滑るさまを人形で遣う師ならではの感想?でした。)
文楽では第2部名作劇場の 「卅三間堂棟由来」「大塔宮曦鎧」 を観劇しましたが、加えて文楽素浄瑠璃の会 「和田合戦女舞鶴 市若初陣の段」「曲輪文章 吉田屋の段」 を楽しみました。
上方文化講座で素浄瑠璃にも目を開かせていただき、一度文楽劇場の公演に と思いつつもなかなか日が合わずで延び延びになっておりましたのが、今年はやっとかないました。初めてのことゆえ事前にそれぞれの演目の床本を読んで劇場に出掛けたのですが、ちゃんと劇場の方でも解説を用意してくださっているのですね。語りの前に上方文化講座ご担当の久堀先生が舞台で丁寧に芝居の成り立ちから背景あらすじ、そして聴きどころなどを丁寧に解説くださり、床本を読んだだけではチンプンカンプンでした和田合戦なども 「ああ、そういうことだったのか・・・」 とようやくわかった上で語りに接することができ、素浄瑠璃の魅力に触れることが出来ました。
この公演では素浄瑠璃の後、歌舞伎の仁左衛門さんと語り終えたばかりの咲太夫さんのお二人による、吉田屋についてのトークがあり、これがざっくばらんなお話しで楽しいものでした。

さて
今年の上方文化講座の演目は平成28年4月の国立文楽劇場でも通しで上演されました 「妹背山女庭訓」、その際には一日がかり10時間ほどで第一部第二部を通して観ました。第二部途中では意識が途切れながらも・・・

今回の講座で取り上げられましたのは、妹山背山の段ではなく 杉酒屋の段から金殿の段に至る四段目でした。
平成28年の公演の際には通しと言いながらも初段から忠実に順を追って ではなく、二段目が二つに割られて第一部が 〈初段+二段目のごく一部+三段目〉、第二部が 〈二段目+四段目〉という分け方で上演され、別段気にもしていませんでした。公演パンフレットには、作品の中の二つの大きな流れを分けてそれぞれ楽しめるように、と書かれていましたが、今回の講座では種明かし、なるほど・・・興行上の理由であったのね!
そのままの流れで行くと、第一部が初段と二段目となって地味で見せ場に乏しく、吉野川を挟むあの妹山背山の段と道行恋苧環や金殿の段などが第二部に集まってしまって、そうなれば当然お客は第二部に集中してしまう というのがどうやら真相のようでした。もちろん観る側としても見せ場があちこちに散らばってくれた方が意識が継続して観ることができるとは思いますけれど・・・
そして、妹山背山の段についても、舞台の造りから二つの床での語りの変遷が丁寧に解説されました。
先行作の 「役行者大峯桜」 では男女別にそれぞれの太夫さんが語るというつくりであったために語りの床は双方の家別とはならず同じ一つの床であったものが、妹背山ではそれぞれの家の登場人物を男のみと女のみに分ける工夫により、太夫の語りを男女で分ければすなわちそれぞれの家毎になり、吉野川をはさんで上手下手に分かれる妹山背山そのままに、大夫の床もそれぞれに側に分けることが可能となって効果的な演出となったとのことです。当初太夫三味線は舞台のうちに隠れて語っていたものが時代の流れの中でやがて御簾内の語りとなり、そして出語りとなって床の位置も現在のような舞台側方上手側となりました。妹背山も語りの床が妹山背山と別れていたとしても、当初恐らくは客席からは見えない位置であったものが出語りとなり、吉野川を挟んで上手下手に妹山背山の屋敷が対峙する形とともに床もまた双方の位置に設けられた現在の姿となって、視覚的にも非常に演出効果大となったようでした。
その上なんとまあ、江戸時代の道頓堀での芝居小屋は通りの南側に建っていたため、舞台の上手は現実の方位では西、下手は東となって、
上手の背山=父と息子=西風(竹本座の芸風 男性的)の語り口=地理上の西
下手の妹山=母と娘=東風(豊竹座の芸風 女性的)の語り口=地理上の東
と見事に一致、現在の国立文楽劇場では舞台は客席から見て北側ですので残念ながら上手は東、逆転しています。
もっとも江戸時代の芝居小屋のような半屋外の造りではなくコンクリートのビルの内部の劇場ですので方位を意識することはありませんけれど・・・。
それでもそんなこんなの事を知れば、一層演目が親しく感じられます。

そして今回の講座の四段目
なんとまあお三輪が一途で可愛らしくあわれを誘い、求馬は ‘いい男’ を武器に二人の女性を手玉に取る、なんといかすけない奴なのでしょう!
「疑着の相」 ある女の血を得んがためにお三輪に恋をさせた上に嫉妬に狂わせて殺して生き血を得る・・・
現代の感覚で物語りの善悪や展開を裁いてはダメを承知で、でもやはり なんとまあ! と思ってしまいます。
しかも
お三輪が怒り狂っていたのは嫉妬もさることながら官女からの辱めの部分も大ではないの?
とか
刺した鱶七から真相を明かされて 「嬉しい」 と言って息絶えればもう 「疑着の相ある女の血」 ではなくなってしまわないの?
などと突っ込みを入れてしまいたくなります。
現代の尺度を持ち込めば、演目の 「女庭訓」 自体がもうセクハラだらけで話が成り立っていきませんけれどね。

さて、今年も技芸員の皆様は含蓄あるお話しをたくさん披露してくださいました。
町娘 (お三輪) とお姫様 (橘姫) の演じ分けについて
津駒太夫さんは、語りのスピード・テンポ、語尾のちょっとした上げ気味加減で語り分けられ、
清介さんは、音は変えず間を変える
と仰っていました。
人形遣いの勘十郎さんは、お姫様は型があって演じやすくお姫様らしく見せやすいのに対して、十五・六の町娘というのがとても難しい、と仰っていたのが印象的、ほんの何気ない仕草によってこの年齢の娘らしい可愛らしさが醸し出せるのだそうです。杉酒屋の段の冒頭、お三輪がほうずきを揉みながら帰ってくるシーンのちょっとした仕草のむつかしさを、そしてその場面を遣う蓑助師匠のお三輪の可愛らしさを語ってくださいました。

お三輪をいじりまくる官女の場面では
津駒太夫さんは、下品ではあっても官女として下世話になりすぎないようテクニックが必要と話され、なるほどなるほど・・・
勘十郎さんは、この場面三人遣いの官女で演ずることもあるけれど、ツメ人形の官女の方がお三輪も引き立ち面白いと仰っていました。そのツメ人形の数もわずかな人数でさも大勢でいじめ回しているように見せると・・・。
講座のおしまいの質疑応答の際に文楽の魅力を問われての回答に今年もまた清介節が絶好調なのでしたが、清介さん曰く、文楽はスピーディで面白い、それに引きかえ歌舞伎のなんと冗長なこと!と仰っていましたが、今回の講座の後で私は歌舞伎の金殿の段をYouTubeで見て文楽の同場面と見比べました。本当に歌舞伎は長い!延々続く。そしてまあなんと大勢の官女がお三輪を執拗に執拗にイビルことイビルこと!
清介さんの言うスピーディ とか、勘十郎さんの言う数体のツメ人形で というのが実に良く実感できました。

今回の講座の最終日にはその金殿の段を実演いただいたのですが、なんだかいよいよこの講座の実演も本格的になってきました。
二双の金屏風の背景に手すりも二重、下手には人形出入りの衝立も設けられ、舞台の設営も本格的。
演ずる人形遣いさんも数人の官女のツメ人形に加えて、鱶七には先頃襲名されたばかりの吉田玉助さんも今年も加わってくださって、ほぼ金殿の段をすべて上演。やはり人形一体のみでは実演はあくまで実演、物語りにはなりづらいですものね。
熱の入った実に見ごたえのある舞台でした。

その後の質疑応答で、復曲についての質疑に答えての清介さんのお話しですが、
歴史の中で途絶えてしまった作品というのは、面白くなかったから廃れた、従って歴史的に正しく復曲しても面白くない作品が再現されるだけであり、「正しく」 よりも 「面白く」 を意識して復曲する という旨のお話しをされましたのが印象に残ります。
折角復曲してもまた廃れてはその演目は受け継がれてはいきませんものね。
過去の講座でも、技芸員の皆さまは常々古典作品には敬意を払い改変を加えずそのままに丁寧に次代へ継承していくことの大切さを話されていましたが、古典の骨格を維持しつつも演出のちょっとした工夫や復曲の気配りなどで新たな魅力を加えながら次の時代へ作品を繋げていかれるのだな、と感じました。

ところでいろいろと天候に悩まされましたこの夏、講座にも天気の意地悪がございました。
近づく台風に警報の発令が予想され、そうなれば大学としてはおのずと休講になります。
大学の方々は台風予想の情報収集と対応に尽くされ、最終日8月23日の講座予定を前日に急遽変更して、午後であった舞台実演を午前に、午前の講義を午後に差し替えられました。
そして23日当日、午前中に素晴らしい舞台の実演を堪能でき、午後3限目中にはとうとう暴風警報が発令されて4限目の講義が中止となってそのまま今年度の上方文化講座は終講となりました。
大学側の対応ももちろんですが、技芸員の方々や舞台の設営などスタッフの皆さまの柔軟で臨機応変の対応があったからこそです。午前中の実演のためには設営準備など朝早くからのご苦労もあったことと思います。
数年前でしたが国立文楽劇場で本公演上演中に停電があった際に、太夫三味線人形遣い皆さま一向に動ぜず、懐中電灯で人形に光を当てながら何事もなかったように上演を続けられたということがあり、お客さんの中には演出かと思った方もいらっしゃったそうです。さすが伝統のチカラ!本物のプロフェッショナル!と報じられて、そのニュースを感心して読みました。それに比すればどうということもないことでしょうけれど、でもこのような柔軟な対応というのはなかなか出来ないものだと思います。
皆さまには心より感謝申し上げます。
残念ながら中止となってしまいました4限目の
人形浄瑠璃の「現代」が始まったころ─「無知な観客」の歴史にむけて─
という講座は配布されたレジメを後で読みました。
大大阪の時代を背景に、劇場の構造の変化と観劇の作法などの変化を取り上げられたのであろう資料を読んで、この講義は是非ともまた来年以降に!と期待を持ち越します。

来年の講座も楽しみです。

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  1. 2018/09/24(月) 16:40:24

彼岸花 ~ 秋の休日阪大で音楽三昧


連休の日曜・月曜と続けて近くの大阪大学でのイベントに出掛けた帰り 田んぼの畔に彼岸花
いつの間にかすっかり秋になりました

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20180917higanbana (2)

日曜日9/16は「ワンコイン市民コンサートシリーズ」での 武久源造・ピアノの発見第四章<ピアノ二都物語>
1800年代初めごろにウィーンとロンドンでそれぞれ作られた二台のスクエア・ピアノという古いピアノでの演奏会
現代の大音量で響き渡るグランドピアノとは一味も二味も異なるコンサートを満喫
古楽器ゆえに内部の部品が折れてしまったとかで武久さん自ら途中修理をしながら、というのも ならでは のコンサートでした

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そのピアノはこちらで聴くことができます

翌17日の祝日は阪大博物館のプログラム「記憶の劇場」の一環の
「TELESOPHIAと芸術・文化・生活」日本ジャズのTELESOPHIA 「JAZZICTIONARY-ことばが奏で、ピアノが語る日本ジャズ史-」
というイベントで、こちらは阪大が所有する1920年製のベーゼンドルファーによる渋谷毅さんのピアノソロコンサートと、さまざまな企画に携わってこられたプロデューサー川村年勝さんのお話し。静かで深い渋谷さんの演奏は素晴らしく、また、川村さんが披露するかつての熱い時代の数々のエピソード、とても興味深く伺ってきました。そして1983年の屈斜路湖ジャズフェスティバルの記録映像、ヒノテルとタモリのトランペットバトル(!)など30分近く流されました。
あの頃といえば関西の私自身はライブ・アンダー・ザ・スカイや琵琶湖バレイなどに通っていましたが、当時のジャズフェスの空気・ジャズの曲調などを思い出して懐かしかった・・・
たまたま大阪に来られていて駆けつけてくださったという金子マリさんも渋谷さんの伴奏で2曲歌ってくださり、あっという間の3時間でした。

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大学ではこの子たちのお出迎えもあってご機嫌な二日間でありました。
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  1. 2018/09/18(火) 12:54:14

「SWITCHインタビュー 達人達 蝶野正洋×大西順子」

NHK Eテレ 「SWITCHインタビュー 達人達(たち)」を見ました
2018年06月09日放映 「蝶野正洋×大西順子」
大西さんが大のプロレスファンだったなんて・・・知らなかった!

番組では大西さんが活動停止や引退宣言などについて語る部分もあり 興味深く拝聴
草食系ジャズ とか サーカス的なもの への否定的な言葉にウンウンとうなずきながら見ました
まだまださ迷いながらで いつまた活動停止するかも・・・ などとも仰っていましたが
でも昨年の二枚のアルバムや先の高槻での演奏を目の当たりにしますと霧が晴れて視界明瞭と感じています

番組内で私が特に印象深く聴いた大西語録
多少重複気味ですが・・・

・「動」の部分をひけらかすのが嫌

・全然動いていないかのようにして実は動いている
 無駄はいらない
 でも凄いことをやっている 凄い音が出ている
 はたから見るとただ座っているだけに見える

・本当に必要な音を必要なだけ弾く

・本当のレジェンドが生きている時代に遭遇出来て 一緒に演奏できた
 その時に見てしまったものは 一生自分の中からは消えない

・見てしまったものは消えない そこだけは忘れずに生きていく

ひとつひとつがとても意味深く
わが身にも照らし合わせて何度も噛んでいます
  1. 2018/06/10(日) 19:07:43

「アンチゴーヌ」 と 「アンティゴネ」

先に観劇していたく感激しました舞台 「アンチゴーヌ」
その脚本を読みました
今回の舞台のための岩切 正一郎さんによる新訳は (まだ?) 出版されておらず 図書館にありました

アンチゴーヌ アヌイ名作集
「アンチゴーヌ アヌイ名作集」 アヌイ/著 芥川比呂志/訳 白水社

版です 加えて 原作の

アンティゴネ ソポクレス
「アンティゴネ」 ソポクレス/著 福田恒存/訳 新潮文庫

と 同じく改作の

アンティゴネ ブレヒト
「アンティゴネ ソフォクレス原作・ヘルダーリン訳による舞台用改作」
ブレヒト/著 谷川道子/訳 光文社古典新訳文庫

を手に取りました
それぞれに面白く また 二つの改作はともに第二次世界大戦を経て
一方は ナチスドイツ占領下の1944年のパリにてフランス人作家により
他方は ドイツ側 といっても戦時中はアメリカに亡命しており 戦後東独ベルリンにてドイツ人によって1947年に書かれた という
その反映もまた興味深いものでした
それら3作は 細かなところまで含めればかなり異なるところがありますが
大きな点では アンチゴーヌをとりまく主要な登場人物の造形がまったく異なり それがアンチゴーヌの造形や物語の意図をそれぞれに形作っています

■王クレオン の人物像

ソポクレス原作ではゆるぎない国王 迷いのない絶対的な支配者 です
みずからの裁きを疑うことはありません
けれどもまた 自らを超えた 神 の裁きには従う人物です
そして 結末では神に逆らった報いとして 神によって不幸へと導かれていきます

ブレヒト改作では暴君・侵略者として描かれ ナチスドイツ=ヒトラーが重ねられています
そして 他の二作では敵を退けてテバイ (テーベ) の存続・繁栄は保たれていますが
この改作の結末では テバイは侵略戦争に敗れ 王とともに国も亡びることが暗示されています

それに対してアヌイ改作では
クレオンもまた一人の人間であり 支配者であるとともに人間としての悩み・葛藤も持ち合わせています
「そもそも王などにはなりたくはなかった」人物です
「音楽を愛し、美しい装丁の本を愛し、テーベの町の小さな骨董屋をひやかしながらの長いそぞろ歩きを愛していた」 人です
権力 というものにも魅かれず 王の支配もまた 労働 として描かれる
「仕事にとりかかろうとする労働者」 であり 結末では「みんなはけがらわしい仕事だというが、もし私がそれをやらなかったら、いったい誰がするのだね。」
と アンチゴーヌとともに息子エモンと妃ユーリディスとを失ったのち 悲しみのなかでもまた 王としての日常=閣議にとぼとぼと戻っていきます
人生の苦悩を知る孤独な国王であり
ちいさなアンチゴーヌ が大きく 大きな国王が卑小に描かれています

■アンチゴーヌの二人の兄の性格と死の経緯

オイディプスが王位を去った後 その二人の息子が一年交代で国を治めることとなりましたが 兄が一年を経ても弟に支配を譲らず 追放された弟が報復の軍を率いて攻め入り 兄弟が相まみえてともに果てた というのがソポクレスの原作です
これが アンティゴネの物語りの発端となっていきます
国を守るために戦い戦死した兄は丁重に葬られ 祖国に弓を引いた弟の屍は野にさらされます

それに対してブレヒト改作では 二人の兄はともに侵略戦争の犠牲者として描かれています
ナチスドイツが鮮明に反映されています
侵略者クレオン王の命で侵略戦争の戦地に送られた二人は 長兄は戦死し それを見た次兄は戦争への恐れと嫌気からの逃走の末捕らえられ 王クレオンによって刺殺されます
軍人として祖国のために戦い戦死した兄は葬られ 逃亡兵である弟の遺体は打ち捨てられます

アヌイ改作ではソポクレス原作の設定をそのまま引き継いでいます
ところが アヌイは二人の兄にとんでもない性格を与えました
いずれもとうてい君主には値しない 「二人のごろつき」 「手のつけられない道楽者」 「二心を持った放蕩息子」であり
二人がそれぞれに父王を暗殺し国を売ることをたくんでいたのです
そのような二人を たまたまクレオンが統治の必要上 「二人の中の一人を英雄に祀り上げる必要を感じた」 だけであったのです
しかも 丁重に葬られた長兄の亡骸 と 野にさらされた次兄の亡骸 とは 実は
「見分けがつかなかった」 「二つの死骸のうちまだしも損なわれていないほうを収容させて国葬に付し もう一つをその場所で腐ってゆくのに任せるように命令した どちらがどちらだかこの私にも分からない そして私にとってはどちらでも同じことなのだよ」
「こんな情けない物語」 とすることで 次兄の亡骸を弔うというアンチゴーヌの命を賭した美しい行為の意味をものの見事にはぎ取ってしまいました

■アンチゴーヌの姉 (妹) イスメーヌ
イスメーヌ (イスメネ) は ソポクレスの原作でもブレヒト改作でも アンティゴネの妹とされています
アンチィゴネは 道理を妹に諭す毅然とした姉であり イスメネは臆病な妹です
それに対してアヌイ改作では姉となっています
世の常識・世渡りの知恵を身に着けた姉に対して 気持ちの純粋さをたもっている妹アンチゴーヌです


そして 原作ではもっとも主要な登場人物(?)である
■神 の存在/不在
の問題があります

ソポクレス原作 「アンティゴネ」 においては 神の存在が絶対的です
王クレオンは 神の裁きには従い 劇の結末にてアンチィゴネを救おうと試みます
あくまで神に逆らった行いを正すため 神の怒りを避けるためです
そして アンティゴネもまた 兄の亡骸を弔おうとするのは 王である人間の定めた掟よりも その上位に位置する神の掟に忠実であろうとしたからでした
クレオンもアンティゴネもいずれも神の意志の上で行動しているという点では同じようなものかもしれません

それに対して改作では神はいなくなり あくまで人間の物語りとして描かれています

このようにさまざまな手が加えられて
ソポクレスの 「アンティゴネ」 は アヌイの 「アンチゴーヌ」 となりました
そしてあの息詰まる アンチゴーヌとクレオンとの二人によるセリフの応酬が胸に迫ってくる物語となりました
神の御心 では片付かない 人間ならではの いずれの立場をも絶対とはみなせない葛藤の物語りであるからこそ
観客もまた物語りに引き込まれ 思い悩む一人となります

それぞれの脚本を読んで ようやくみえてくることが多くあります
このうえで出来ればもう一度舞台を観たい と願えどももちろんすでに公演は全日程終了

けれども幸いNHK-BSプレミアムステージにて4月に放映される予定です
ストーリー・演技とともに あの特殊な十字形の舞台をどのように切り取っているのか カメラワークもまたとても楽しみです
  1. 2018/03/11(日) 14:19:27

小曽根真 & 児玉桃 ピアノ・デュオ

とても とてもよかったので
連日ですが この際恥ずかしついでに

今日3月3日は桃の節句
ということにはまったく関係ありませんが
児玉桃 さんと 小曽根真 さんのピアノを聴いてまいりました
川西能勢口のみつなかホール
「小曽根真 & 児玉桃 ピアノ・デュオ」

第一部
児玉桃さんのソロで幕あけ
ドビュッシーの美しい音色にもはやすっかり “桃”源郷
その余韻も冷めやらぬなか
続いて小曽根真さんのソロ
児玉さんの演奏を聴いて それにインスパイヤーされて創ったという即興のメモをもとに
「春」をテーマとしたインプロビゼーション
つづいてもう一曲 Jazzのスタンダードから
Spring is Here
小曽根さんのアレンジで始まった演奏は途中から
つい先頃お亡くなりになったお父さまの小曽根実さんのアレンジに変わっての演奏となったそうです

休憩の後の第二部
デュオ・プログラムとなって打楽器のお二方も加わり
バルトーク:2台のピアノと打楽器のためのソナタ

これが素晴らしくよかった!
バルトークって少々苦手な印象だったのですけれど こんなにもスリリングだったの!
四者のもの凄く緊密なジャズを聴いているみたいでした
そしてそれを醸し出したのが四者のステージ上の配置
客席を背にして2台のピアノが逆「ハ」の字型に並べられ その奥2台のピアノの間にパーカッション
下手のYAMAHAに小曽根さん 上手のSteinway & Sonsに児玉さん
奥のパーカッションは下手に大場章裕さん 上手に西岡まり子さん
客席からはピアニストの顔は見えず 背中を眺めるのみなのですが
その背中の動き 衣服の下に隠された筋肉の動き というものが感じられて
もの凄く演奏に集中して聴くことが出来ました
なにより 四人のアイコンタクトが客席からとてもよくわかって
演奏の緊密さにぐいぐいと引き込まれたのです

アンコールでは
バルトークがとてもよかったからと その第三楽章をテンポを変えて高速での再演奏
そしてもう一曲
チック・コリアがお父さまに捧げたという 「Armando's Rhumba」

とてもとてもいい演奏会でした

20180303ozone kodama
終演後にはやはりパンフレットにサインを頂きました
  1. 2018/03/03(土) 19:20:19
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