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木村哲矢建築計画事務所 木村哲矢 が  見たこと 聴いたこと 感じたこと

沼野充義先生最終講義YouTube配信

当初の予定では今日は伊豆長岡へ温泉に出掛けているはずですが、コロナで自粛・・・
真っ青な青空 咲き始めた桜が恨めしい。
(遊んでばかりですみません でも名建築を見るのが目的です、大義名分を申せば・・・)

日曜には本当に久しぶりにお芝居に出掛けた歓びを綴ったところですが、今日もまた楽しみにしていた4月の連夜のコンサートの中止の連絡が・・・。
まあ、海外からの入国拒否や移動制限があれば来日できない、できてもその後2週間軟禁状態の生活なんてできませんものね・・・。

かと思えばつい今しがた届いたメール、4月末に東京にオアソビに出掛ける予定の夜行バスを
「新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、京阪神~東京線の一部便を運休させていただくこととなりました。
自動的に返金手続きをさせていただいております。再度別の運行便を改めてご購入ください。」
ってヒドイじゃないですか・・・・・・他の便は走っているのに狙い撃ち?
(あそびの予定ばかりで本当にお恥ずかしい、罰が当たった?東京の建築見学という立派な隠れ蓑もあるのですけれど・・・)

お世話になっている大学でも卒業式も入学式も中止ですが、4月からの新学期も始業延期の連絡が届きました。4月末に始まってすぐに連休・・・というのでは5月病になる間もない? (5月病って死語?まだあるの?)
でも私の出講日は連休中も平常授業のようです。

大学と言えば、沼野允義先生の東京大学退官記念の最終講義がやはりコロナウイルスのあおりで中止となる一方、YouTube配信で行われるのだそうです。
NHKのラジオ講座 「英語で読む村上春樹」 や、TV 「100分 de 名著」 での 「チェーホフ / かもめ」 の講座で隠れ沼野ファンとなりましたワタクシ、よもや先生のご講義を拝聴する機会が訪れようとは!ナマのお姿お声を拝めないのはもちろん残念ですが、でも限りなくナマに近いライブ配信、とてもうれしい!楽しみです。
コロナのあおりでも少しはウレシイこともあります。そうでなくっちゃ・・・

沼野充義先生最終講義(3/28)YouTube配信のお知らせ
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/genbun/oshirase(numano20200328).html
https://allreviews.jp/news/4330

先頃私も興奮して記事に書きましたびわ湖ホールのプロデュースオペラ 「神々の黄昏」 のYouTube配信は大変な反響であったそうです。
昨日の読売新聞夕刊の記事、桂文枝師匠の創作落語300作目の記念公演を無観客のなんばグランド花月で行いYouTube配信した模様の顛末でした。「富士山の頂上で演じた時よりもつらい」 ものであったそうですが、文枝師匠自身もとても前向きな感想をつづっていらっしゃいました。この模様は今月いっぱい配信されますのでまだまだ視聴可能です。

六代 桂文枝 創作落語No.300 特別配信
https://www.youtube.com/watch?v=OPr8gYZlK2A
無人の観客席も映る動画で、語り出しもこの独特の状況にかかわるお話しです。

子供を支援するWEB上の試みもさまざまに行われていることを報道で見聞きします。
こんな世だからこそ可能な方法で皆さまそれぞれに先を見据えていらっしゃいますね。
個人的なオアソビ予定の成り行きに一喜一憂するばかりのワタクシは本当に頭が下がる思いです。
  1. 2020/03/24(火) 18:21:21

地点公演 「罪と罰」

お芝居もコンサートも中止が続き、不要不急の外出を控えるというよりも出掛ける先がない状態のこの3月ですが、久しぶりに昨日曜日にお芝居に出掛けることが出来ました。

京都の劇団地点による 「罪と罰」 が京都芸術劇場・春秋座で予定通り開催されたのです。どうなることかとずっとやきもきしていましたが、地点のウエブサイトにも可能な限りの対策を施したうえで公演を実施予定とずっと書き続けられていましたし、会場が公共施設ではなかったことも実現にこぎつけることができた一因でしょうか。
とはいえ劇場がある大学も入構制限がなされて人気のない閑散とした中での公演でした。消毒用アルコールとマスクが配備され制限された順路に従って劇場へと進み、人と人との間接的な接触さえも避けるためでしょう、チケットも自らもぎって箱に投入、そして万一感染者が出た時の連絡用にと住所氏名連絡先を記入する際にも備え付けの鉛筆を手に取る前にアルコール消毒、恐らく払い戻し希望者も結構でたのでしょうか、空席も目立ち、それが分散しての着座にも一役買う始末・・・。

昨年三浦春馬+大島優子で観たフィリップ・ブリーン演出の 「罪と罰」 は文句なく楽しみましたが、こちらは台詞も時空間も解体され再編されたまさに地点らしい 「罪と罰」。独特の抑揚とリフレインによる台詞の応酬は、やはり少々わかりづらくしんどい時間帯もありましたが (もう一~二回観なければわからない・・・)、それでもお芝居の空気を思いっきり吸って、本当に久しぶりに深呼吸をした気分!

20200322chiten_tsumibatsu.jpg

劇場からの帰りのバスの窓から見える新装なった京都市美術館。本来であればこの週末にリニューアルオープンで賑わうはずでしたがロープが張り巡らされおいたわしい模様・・・。
延期された4月4日の開館、そのこけら落としの杉本博司展も楽しみにしています。
世界各地の報道を見ていますとまだまだ収束に向かう気配も感じませんが、どうか平穏を取り戻すことができますよう!
  1. 2020/03/23(月) 18:49:22

びわ湖ホールを応援します

3月4日の記事の追記です。
追記がついつい長くなってしまい独立した記事に改めました。(憤り!が収まらない・・・?)

上の記事を書いた同じ3月4日、びわ湖ホールが大きな選択をしました!
記事の中で触れた野田秀樹さんの意見書に
「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。」
と書かれています。まったくその通りです。

スポーツ関係者の方々にはもちろん異論もおありでしょうけれど・・・
地響きのような観客の熱狂絶叫から本来の力以上を発揮するアスリートも数多いと思いますし
座布団も飛ばない春場所???

けれどもそれらはあくまで付随的なことであり、根本においてはやはり演劇とスポーツとは異なります。
観る人が同じ時空間にいることが前提で初めて成り立つ演劇に対して、スポーツは究極的には自己と闘いであり、対戦相手との闘いです。声援があろうがなかろうが長距離走者は孤独に走り続けなければなりません。無観客の演劇と同義であるのは、無観客のスポーツ試合ではなく対戦相手のいない試合です。相手チームのいないラグビー試合、相手力士のいない相撲 です。
(そのような意味で昨今流行りのシネマ歌舞伎と本来の歌舞伎とは全く別のエンターテインメントであり、シネマ歌舞伎はもちろん演劇ではなく映画ですよね。)

さて

びわ湖ホールは・・・
この週末7日8日に予定していたプロデュースオペラ 『神々の黄昏』、残念ながら新型コロナウイルスのためにやむなく中止が決まっていたこの公演を両日とも無観客の形で公演を行い、その様子をYouTube上で無料で同時配信するというのです。

【速報】びわ湖ホールプロデュースオペラ『神々の黄昏』無観客公演の実施および無料ライブストリーミング配信決定!
https://www.biwako-hall.or.jp/topics/20200304_7455.html

オペラといえば役者からオーケストラから舞台装置から衣装に至るまでその他諸々一大事業、4年かけたその成果が今週末に実を結ぶ予定であったわけです。とても 「無かったこと」 になどできませんよね。
満員の観客の熱気熱視線があってこその演劇を、空洞のホールの中で演じるそのご苦労は計り知れないものがありますし、興行的にも莫大な損失であろうとは思います。
オペラ自体に馴染みのない私で申し訳なく思いますが、それでも遠く離れたここから、パソコンの画面越しではありますけれど熱い視線を送って応援します!

 * * *

ついでながら びわ湖ホール の建築について
確か現在の日本で本格的なオペラができる四面舞台を有するホールというのは、静岡のアクトシティ浜松、東京の新国立劇場、 (私の行きつけお気に入りの) 兵庫県立芸術文化センター、そしてこのびわ湖ホール くらいだったのでは・・・うろ覚えですが・・・
設計は佐藤総合計画 竣工1998年、私はまだ訪れたことがありませんのが残念です。
少々派手な外観が佐藤総合計画っぽいかな と感じます。

 * * *

追記を書いた本日5日、 4日の記事の中でも実現を祈っていました
「マルタ・アルゲリッチ&ギドン・クレーメル 奇跡の一夜 」
がやはり招聘元の判断により中止との発表がなされてしまいました・・・
私個人の方は万難を排して準備していたのですけれど・・・
うっうっうっ・・・
芸文もまだ3月1日の 「宮田大&田村響 二人のベートーヴェン 第2回」 は実施してくれてうれしかったのですけれど、招聘元の判断で来日自体がなくなればもうどうしようもありません。
ともかく今の日本は海外からは アブナイ国 と見られているから仕方がないか・・・
(現実には大多数の国民がごく普通の市民生活を送っている平穏な国なのですけれど、内外のこの混乱はなぜ?)
芸文自体も兵庫県内で感染者が出て以降姿勢に変化が出ているようですし・・・
ともかく奇跡は起きず 「奇跡の一夜」 は 夢の一夜 とはかなく消えてしまいました。
招聘元の KAJIMOTO  のウエブサイトによれば
「アルゲリッチ、クレーメルの両氏とも、再び来日してデュオが実現できるよう最善を尽くしたい、と語っております。」
とのこと、まあ儀礼半分の言葉にもすがる思いでいつの事かはわかりませんが首を長く待ってます・・・
その時は東京だけでなく関西にもちゃんと来てくださいよね!

マルタ・アルゲリッチ&ギドン・クレーメル 奇跡の一夜
露と消えた公演のチラシ

 * * *

同じく今月下旬の兵庫公演を私も楽しみに待っていた 舞台 『お勢、断行』
主催する世田谷パブリックシアターの苦渋の判断により、2月28日の公演初日前日にツアーも含め全公演の中止が発表されました。舞台にはセットも既に組み上げられ 幕が開くばかりであったでしょうね。
新聞の報道によれば 「出演者らは 「せめて記憶に残したい」 と無観客の劇場で本番通りに稽古した。」 とあります。
出演者関係者の方々には様々な想いと共に記憶されたこととは思いますが、観客とは決して共有されない記憶であり、字句の通り 演劇 ではなく 通し稽古 の記憶 であるのが悲しいばかりです。

お勢、断行


ウイルスの感染はもちろん悪しき連鎖ですが
それにとどまらない連鎖に乱される困惑の弥生三月です


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3月7日の追記です

びわ湖ホールの 『神々の黄昏』
本日の公演がつい先ほど終わったところです
午後一時から・・・長かった!
オペラに馴染みがない と言いますよりも歌モノが苦手な私でしたが最後まで楽しみました
ストーリーも知らず 日本語字幕もなくてドイツ語歌詞もわからず
あまり画質はよくなくて 定点観測的な画像でカメラワークというものがない
そんな配信でしたけれど (あまりの言いようかしら・・・)

でも

終演後の 拍手一つ聴こえぬ中でのカーテンコールには泣けてくるものがありました
出演者やスタッフの皆さまには きっとネットの向こうからの拍手が (もちろん私からのも) 届いているものと信じます
不完全燃焼のままモヤモヤと終わってしまわず 心の区切りもついていらっしゃるのではなかろうかと期待します
びわ湖ホール大ホールの定員が約1850席
そしてこの配信を視聴した方々は終盤には約12000人
困難な状況下にあって今回のびわ湖ホールは一つの姿勢を示しえたのではないでしょうか
とはいえあくまで今回のこの形は特殊な形態
今回の試みが経済的にも幾分なりとも報われ
正常な形での公演が継続的に成り立っていくよう願っています

まだ明日も別キャストによる公演があります
引き続き応援します

 * * *

3月8日の追記です
今日の公演も今しがた終わりました
これで二日間の配信公演が終了しました
今日も常時11000人以上 フィナーレでは12200人を超える方々が視聴していました
無音のカーテンコールの後 幕が閉じた舞台から聞こえる出演者の方々の歓声と拍手に胸が熱くなります
今回の公演と配信に尽力をされたすべての方々に私からもささやかな拍手とお礼を送らせていただきます

この土曜日曜
本来であれば 国立京都国際会館の特別見学会+講演会 に出掛け 舞台 「ねじまき鳥クロニクル」 に出掛ける予定でしたが
いずれも中止
二日間とも早朝は読書 午前中は録画のお芝居 午後からはびわ湖ホールの配信を観て過ごしました
土日に仕事にも遊びにも出ず 二日とも家にいたのは随分と久しぶり いったいいつ以来のことか・・・
マスクもなく出歩く日々が戻り びわ湖ホールにもお邪魔する機会がじきに訪れますよう!
  1. 2020/03/05(木) 19:58:38

上方文化講座2019 「心中天網島」

今年も夏の終わりの三日間、大阪市立大学の上方文化講座を受講してまいりました。

今年の演目 「心中天網島」 こそ、私を文楽に導いてくれた作品でした。
京都で下宿生活を送っていました大学時代、一乗寺にありました名画館によく映画を見に出掛けたものです。その頃にはよく ATG (日本アート・シアター・ギルド) の作品も上演され、そのうちの一つが 「心中天網島」、見た瞬間からすっかり心を奪われる素晴らしい映画でした。監督:篠田正浩 主演:岩下志麻 美術:粟津潔 音楽:武満徹・・・なんといってもその様式美溢れるモノクロの映像が美しく、そこに黒子を登場させて進行する物語り、そして 「おさん」 と 「小春」 とを岩下志麻が一人二役で演じるという演出。この時の感動から近松の原作を手に取り、もともとの人形浄瑠璃とはどのようなものであろうかとの興味から、大阪道頓堀の朝日座に足を運ぶということに至った次第です。大学を卒業後京都から大阪に移り、借りたアパートが都島を経て谷町9丁目、深夜に通った銭湯が日本橋でした。その銭湯の入り口真向かいで進められていました国立文楽劇場の工事も完成間近でした。そうして途中一時足が遠のいたこともありましたが、国立文楽劇場とはこけら落とし公演からずっとのお付き合いで今日に至ります。
「心中天網島」 は文楽・歌舞伎などで観ましてもやはり最初の衝撃、篠田監督作品が忘れられません。
今年の講義日程には
「語りとドラマ―人形浄瑠璃と映画が出会う場所―」
のコマもあります。
篠田監督作品にも触れられるのであろうかと期待して受講しました。

さて
近松門左衛門の演目と言いますと人形浄瑠璃の中でも代表的なもの という印象がありますが、今年の講座では一体どの程度上演されているのか というデータから話が始まりました。それが意外に結構少ないのです。三大演目 (菅原伝授手習鑑・義経千本桜・仮名手本忠臣蔵) が圧倒的に多く、実は近松作品は 「曽根崎心中」 がチラリと顔をのぞかせる程度・・・不思議!
それはまた、この上方文化講座でも近松作品を取り上げるのが実に久しぶりなのはなぜか、ということでもありました。
その鍵は 近松の時代 と その後~現代 とでの上演の形式に違いにどうやらあるようでした。

近松の時代は語り物としての要素が強く、また、人形は一人遣いでした。
語りが優先されるために (と言っても字余り時足らずなどが多くて太夫さんにとっては語りにくい、というのも近松作の特徴であるようですが) 人物 (=人形) の登場退場や場面転換などの説明が簡略化され、視覚的なお芝居として不自然であったり演出上困難が伴ったり・・・。そして登場人物が多く、一人遣いでは問題なくとも三人遣いとなりますと、人形遣いさんが舞台に所狭しと溢れ身動きもままならず、肝心の人形も目立たないどころか隠れてしまう、などという問題が多発。
そしてそれらを解決すべく、すなわち観客にわかりやすくするための言葉の整理や演出上のサーヴィスの盛り込み、また演じやすくするために登場人物を整理し減らす などの改作が近松半二らの手によって行われたという訳です。
そのため観客にとっては見やすいお芝居となったわけですが、一方原作者近松が盛り込んだ言葉による数々の仕掛けが失われてもいるようです。この 「心中天網島」 は治兵衛小春の物語りですが、「紙」 屋治兵衛の 「紙」 は 「神」 に通じ、その神もいない神無月 (十月) に命運尽きて小春 (旧暦十月の異称) とともに心中に向かう。また、「紙」 は 「文」 に通じ、物語では起請 「文」 に紛れたおさんから小春にあてた 「文」 が重要な役割を果たします。その 「文」 の存在を知らず小春の心変わりと誤解した治兵衛は散々に小春を 「踏む」。改作ではこの 「踏む」 を動作としてもわかりやすい 「張る」 などに言い換えられています。いたる所に仕掛けられた言葉のレトリック、人形浄瑠璃が語りを主としたものである証しなのでしょうけれど、江戸時代の観客は語りを聞き取りその仕掛けに気付いて、あるいは無意識にも畳みかけられて楽しんだことでしょうか。

さらに昭和の時代に文楽が松竹の興行で行われていた頃、近松作品も多くが復活上演されたそうですが、その際に興行上の受け狙いといいますか、わかりやすく情に訴えかける脚色がずいぶんとなされたようで、もうこうなると様々なヴァージョンが入り乱れ、何が何やら・・・。まあ厳密なことはさておき、一観客とすればお芝居の世界を楽しめればよいのですけれど。
原作/改作などということはつゆ知らずこれまでぼ~と生きてきましたが、原作は 「心中天の網島」 であり、改作 「心中紙屋治兵衛」 を含む現行文楽作品は 「心中天網島」 と区別して表記されているとのことでした。
そして学問の場である大学の講義として対象に取り上げる作品としては原作・改作には厳格であるべきであり、それがこの上方文化講座で近松作品が長らく取り上げられなかった理由ということなのでした。ちなみに本年の講座で取り上げられた 「北新地河庄の段」 と 「大和屋の段」 のうち 「河庄」 は改作 「心中紙屋治兵衛」 より、「大和屋」 は原作 「心中天の網島 」 よりのテキストということでした。

「心中天網島」 は享保五年10月16日早朝に網島大長寺で起きたと思われる紙屋治兵衛と紀伊国屋小春の心中事件、かなわぬ恋の物語り なのではありますけれど、まあそんな涙を誘うお話しではなく、なんともまあ救いようがなく情けない男を挟んで、この男にはもったいない鑑のような二人の女性の、女の義理の物語り。治兵衛小春の物語りと言いますよりは、おさん小春の物語り、もっとはっきり言えば女房おさんの物語りです。それほどまでに出来た女房がまたどうしてこんなダメ亭主に尽くすのやら・・・。おさんの父母が中之巻天満紙屋内の段に登場してあれやこれやと責め立てますが、こんな男を婿に跡取りにと見込んで娘にあてがったあなた方の眼が節穴であったから、こんなにもおさんが苦労しているのでしょう!と憤らずにはいられません。遊女という不遇の身でも小春には治兵衛を選ばない選択はあったと思うのですが、親に逆らうことなどできない時代のおさんにはハズレの男と添うより選択肢はありません。商いを切り盛りし、子を育て、遊里通いの亭主の身を案じ、その遊女との義から遊女の身請けの算段までも企てる。結果的にはそれが発覚してかなわぬこととなり、まあ最低限のマナーと言いましょうか、女房おさんに義理立てして死に場所を違えて治兵衛小春は死にゆきます。
10月の事件が12月早々には道頓堀竹本座で初演、今日のマスコミが話題の情死事件をあれやこれやと脚色して取り上げるようなものでしょうか、観客も事件がまだ生々しい間にその結果を知ったうえで事の顛末に興味津々に舞台を楽しんだわけで、今日私たちが文芸作品として客観的にこの舞台を味わうのとは少々意味が違ったことでしょうね。

冒頭にも記しました、「語りとドラマ―人形浄瑠璃と映画が出会う場所―」 の講義では、人形浄瑠璃では語りとドラマとが統合されているところに大きな特徴があり、その語りとは劇中人物になりきる演劇的要素だけではなく、あらかじめすべてを既に知っている俯瞰的な視点があることが特徴とのことでした。そして映画ではカメラの視点がその語りの機能を有しているということが、実際の映画作品の映像などで説明されました。その上で、篠田監督作品 「心中天網島」 については、画面に登場して物語りの進行を視覚的に手助けする黒子が語りの役割を果たしているということです。一方また、この映画では人形浄瑠璃に特徴的な言葉と身体との隔たりがなく、篠田監督自らが 「歌舞伎からの発想」 と語っているように、人形浄瑠璃の映画化というものではないのではないかとの指摘がありました。

思いますに、おさんと小春とを同一の役者=岩下志麻が演ずるということがこの映画作品では大きな意味を持っていますが、強烈な個性を持つ生身の役者であるからこそ可能な芸当で、これこそ決して人形ではできない演出ですよね。観客はおさんを見ても小春を見てもおなじ岩下志麻であることがわかり、けれども一方がおさんであり他方が小春であることを理解して物語を味わっていく。人形浄瑠璃で仮に同じかしらを使って ここではおさん こちらでは小春 だなんて、観客が混乱するだけです。あえてリアリティを排していかにも書割的なセットで演じたり、色彩を消してモノクロの世界で描いたり などとともに、歌舞伎でも文楽でもなく、映画ならではの武器を最大限に用いた独自の 「心中天網島」 なのだなと感じた次第です。

   * * *

さて、技芸員さんも加わってのお話しでは今年もまた含蓄ある言葉の数々・・・。

清介さん : 音がしない 「間(ま)」 その 間 を客に聴かせる。
(練習に関しての質疑に対して) 音がない時に音をイメージ出来れば、その音を手が探すようになる。楽器を弾くのではなく、浄瑠璃を弾く。

津駒太夫さん : (字余り字足らずが多いと太夫と三味線が合いづらいのでは、との質問に) お互いが気にせずそれぞれにやって、それでピタッと合うのが望ましい。

勘十郎さん : かっちりと遣えば様になる時代物に対して世話物は難しい、やわらかく自然に遣わないといけない。
人形を遣っての解説では、小春が治兵衛に張られて倒れる場面で、丹田 (へその下のあたり) を動かさなければ少々派手に倒れても乱れた感じにならず美しい所作となる、であるとか、一度蹴られる側へ身を傾けてから逆方向へ倒れることによって女性らしい優美な動作になる。

などなど・・・

「心中天網島」 については、津駒太夫さんも清介さんも、観客の多くは改作を好みお芝居としては改作の方が面白いのかもしれないが、演ずる側としては原作の方がやっていて楽しい、実がある とのことでした。改作にはあざとさを感じるとも。
津駒太夫さん清介さん勘十郎さんいずれもが語っていた孫右衛門のむつかしさ。町人が化ける武士として、武士が表に出過ぎてもよくない。ふとした時に町人が顔を出す、それをあからさまに見せず、武士と町人の変わり目をはっきりとは出さない・・・云々。

そしてお楽しみの実演は毎年どんどん本格化します。
素浄瑠璃では 「大和屋の段」 が大熱演で語られ、人形入りの舞台では 「河庄の段」 が、文楽劇場さながらに と言っても過言ではないほど立派なセットをこの狭い講義室に組み立てて、演じられました。
太夫:津駒太夫 三味線:清介 治兵衛:勘十郎 小春:玉助 孫右衛門:勘彌 という布陣
人形遣いさんが今年は3名もという豪華版、狭い舞台に 人形3体 遣い手9名 という、冒頭で説明のあった 「近松原作の舞台は人で溢れ・・・」 を3人の登場人物でも体感できるものでもありました。

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ことしの講座の様子は大阪市立大学の下記サイトにてご覧いただけます。
上方文化の粋・「文楽」を学ぶ ~上方文化講座2019『心中天網島』~

今年はこの講座と文楽本公演とが歩調を合わせてくれた、と言いましょうか
秋の国立文楽劇11月本公演にて 「北新地河庄の段」 から 「道行名残の橋づくし」 まで通して演じられます。
清介さんは 「北新地河庄の段」 の中、勘十郎さんは紙屋治兵衛、玉助さんは公演後期に粉屋孫右衛門 をそれぞれ担当されます。
予習も万全、本舞台が楽しみです。

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   * * *

ところで
講義が行われた学術情報総合センターにあります図書館では、今年の演目 「心中天網島」 にちなんだ関連書籍の展示もありました。
その中にとても詳しく丁寧に読み解いた文庫サイズの本があり、これは是非!と思いアマゾンで検索してみますと1997年のこの本はとうに絶版で古書の取り扱いのみ、それで箕面市立図書館で検索してみますと、おお!在籍。すぐに予約して手にしてみますと市大で展示のあった文庫版ではなく単行本、そしてその表紙に、あれれ?見覚えが・・・
家の本棚の、幾重にも積まれたり手前に置かれたりした本をどけて発掘しますと、なんと 出てきました!
《シリーズ古典を読む―3 「心中天の網島」 広末 保 岩波書店》
ほこりを払い扉を開くと 「昭和58年10月30日購入」 巻末には 「昭和58年11月2日読了」 のメモ書きが・・・
36年前、刊行されたばかりのこの本を手に取って読んでいたのか・・・
住んでいた都島 (心中現場の大長寺も近い!) の古く狭い貸室で朝出勤前に本を読んでいたその頃の生活を思い起こします。
本があふれこれ以上増えるのを避けるため、このところ建築関連の本以外はよほど気に入ったものを除いて努めて買わないようにしていますが、やはり紙の本を買うということはこうした再会があってうれしい。繰り返し手に取る本もあれば、こうしてすっかり忘れ去っていた本との再びのめぐり逢いも生じます。
今年の講義の中で清介さんが大切なこととして、「今は分からなくともとりあえず覚えておく。頭の片隅に置いておけばいつかふとした拍子にわかる時が来る。」 と諭していらっしゃいましたが、本も同じ。とりあえず手元にあること、そうすれば何かの拍子にまた手に取る機会が訪れ、古い記憶を手繰り寄せたり新たな発見に巡り合えたり・・・。
それにしてもその頃はこんな日付のメモを残していたのでした・・・しかも読むのが早い!
週休二日どころか日曜出勤もザラで終電より早く帰ることなんてない勤めの日々でしたのに・・・
パソコンもインターネットもない時代、テレビも音楽も、ビールを冷やす冷蔵庫もないひとり暮らし、本を読むことくらいしかなかったのでしょうね。

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  1. 2019/09/16(月) 11:08:18

「夏物語」 と 「まほろば」

川上未映子さんの 「夏物語」 を読みました。
文学界2019年3月号と4月号とにわたって掲載された長編です。
著者の芥川賞受賞作 「乳と卵」 と同様の設定から始まる物語 ということですが、「乳と卵」 を読みましたのも随分昔でさてどのようであったのか・・・、私の中ではシンクロせずにまったく新しい物語として読み進めました。
これが実に読み応えがあって・・・!

「AID」 - この物語を読むまではまったく見たことも聞いたことのない単語でした。
「artificial insemination by donors」 日本語では 「非配偶者間人工授精」 
第三者からの精子提供による人工授精を意味します。物語りは、この方法によって子を授かろうと考える単身女性を中心に、その姉と姪、離婚して一人で娘を育てる同業の友人、そしてAIDによって生まれた男女などが絡み合って進んでいきます。なぜ人は(女は)子を産み育てるのか? 子は望まれて、あるいは望んで生を受けるのか? 夫婦とは親子とは? 重い重いテーマであり、かつまた、子供を産む性でもない男の私には不可知不可侵な領域なのですが、ともかくぐいぐいと惹き込まれて読み進まされます。筆の力・・・物語りを紡ぐ作家の力というものは本当に凄いものですね。
単行本化前の作品ですので詳しいストーリーなどは控えますが、今夏に刊行予定とのこと、どうぞ皆さまご一読ください。

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たまたまそんな折に観てまいりましたお芝居 「まほろば」
蓬莱竜太さんの戯曲を新たな演出で上演したもので、男性は一人も登場せず長崎の旧家に集まる4世代6人の女性のみで展開するある家族の一日の物語。
「夏物語」 とはアプローチも全く異なるものですが、こちらもまた 妊娠=子を授かる ということが話しの中心に据えられ 女性の生き方 や 家という制度 が問われています。
ともすれば重くもなりがちなテーマが、笑いなどにも包まれて明るくも深くも考えさせられるあっという間の2時間でした。

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 * * *

住宅を設計する立場からすれば、近世の住宅ののち 明治~大正期にはさまざまな住宅改良運動が展開し、家長中心の住まい あるいは接客中心の住まい から、家族中心の住まい そしてプライバシー重視により個室化して家族の希薄さが問題となるに至るまで、常に理想化された家族像と住まいのあり方とがセットで語られてきました。けれども、そのような理想化された家族 (= ごく普通とされた家族) という像が実は少数派でしかないと明らかになったのち、住まいのつくられ方も実に多様になったと思います。さまざまな家族のありようがいずれも突飛なものではないならば、住まいのあり方にももはや突飛というものはないのでしょうね。
ひところそのようなアプローチからの住まいの組み立てにも興味を持ちましたが、私自身の設計ではなかなか踏み出せず・・・
家族のありようなんて百態百様 と思う一方、人間の日々の暮らしなんてものにどれほどの差異があろうか・・・とも思ってしまいます。

 * * *

住まいと家族制度との係わりの際にしばしば建築界にも引っ張り出された(?)上野千鶴子さん、もちろん非婚ですとか家制度ですとかの第一人者ですが、怠惰な私は建築との係わりも含めその言説にはこれまで触れずじまい・・・。
その上野センセイの東京大学入学式での祝辞が先頃話題になりました。
私も東大のサイトを訪れ、新入学生のような初々しい気持ちにはなれなくとも、心に刻みつつ全文拝読しました。
読み進むうちに 気持ちが “気をつけっ!” の姿勢になります。

それにしてもニュースで見た映像、東大の入学式では先生方 あのような衣裳をなさるのだ・・・びっくり!
上野センセイも某所で 「イギリスかぶれの角帽ガウンのコスプレ」 なんて仰っていらっしゃいますが、こちらの方が印象深かったりして・・・いえ、失礼しました、折角気持ちが 気をつけっ  しましたのに・・・
  1. 2019/04/25(木) 18:15:37
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